東京2020パラリンピック競技大会成功へのヒント(前編)「日本のパラリンピック発展に人生を捧げた男たち」

1964→2020

今から53年前の今日(1964年11月8日)、東京パラリンピック競技大会の開会式が行われました。パラリンピックの起源は1948年7月28日に、この日に開会したロンドンオリンピックにあわせて、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院内で行われた、車いす使用者16人によるアーチェリー大会とされています。その12年後、このストーク・マンデビル病院に一人の日本人医師が留学し、ルードウィッヒ・グットマン博士が導入、推進していたスポーツを取り入れた脊髄損傷者のリハビリテーションと、それに続く社会復帰を支援する取り組みに強い衝撃を受け、日本での実践を決意します。

その医師の名は中村裕。中村裕医師は帰国後、当時の勤務地である大分、そして日本やアジアの障がい者の社会参加、特に仕事を通じての自立とスポーツに情熱を注ぐとともに、1964年の東京パラリンピック競技大会の開催にも尽力するなど、日本国内のパラリンピックムーブメントを牽引したと言われています。

公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(東京2020組織委員会)は、日本のパラリンピックのルーツに迫るべく、中村裕医師が自身の人生を懸けて情熱を注いだ障がい者スポーツ普及への軌跡や、その意志を受け継いでおられる長男の中村太郎医師にお話をうかがいました。また、中村裕医師の残したレガシーの1つでもある、37年以上続く大分の国際車いすマラソン大会がもたらした「障がい者スポーツと大分市民との深いつながり」について、大分市民の方々にもお話をうかがいました。中村太郎医師や大分市民の皆さんの言葉から、2020年に東京でパラリンピック競技大会を開催することの意義、そして東京2020大会が目指す共生社会の実現に向けたヒントが見えてきました。

Q (中村太郎医師が)パラリンピックのチームドクターを務めるなど、障がい者スポーツに深く関わるようになった経緯を教えてください。

A
父の影響で、小さい頃から障がい者が身近だったからではないでしょうか。私が大学医学部3年生の時に父が他界してしまいました。当時、進路について相談する人は身近にいなかったのですが、結局選んだのは、父と同じ整形外科でした。整形外科医だったら、普通は人のできない手術がしたいと思うじゃないですか。今だったらそう思うのですが、父を見て育ったので、当時の私は整形外科医というのは障がい者のスポーツや就労、そして社会復帰の仕事をするものだと思っていました。母がパラリンピックや障がい者のための社会福祉施設の仕事に没頭する父をとてもリスペクトしていたので、今思えば、非常に狭い価値観で育ったと思います。

中村医師

Q 中村裕医師はどのように、パラリンピックを発展させていったのでしょうか?

A
父が東京パラリンピックに携わったり、障がい者のための社会福祉施設を創設したりした1964年頃は、障がいがあること自体が恥ずかしいこととされていて、障がいを隠さないといけないような時代でした。父が脊髄損傷の治療を学ぶためにイギリスに行って、帰国してすぐに、大分で日本初の障がい者のための大会を行ったら、ものすごく非難されました。「障がい者を人前に出してかわいそうだ」、「サーカスの真似をさせるのか」、「せっかく良くなりかけたのにスポーツをやって悪くなったらどうするんだ」といった否定的な意見ばかりだったそうです。そのような環境下で、自分の患者2名(大分県の選手)をイギリスへ日本代表選手として連れていったり、東京でのパラリンピック開催に尽力したりしました。父の時代はとにかく障がい者が健常者に追いつこうという時代だったようです。今では、ある程度環境が整ってきて、健常者に追いつくのではなく、共生やダイバーシティと言った観点に変化していきましたね。父がどこまで考えていたかはわかりませんが、父の時代は少なくともそのような観点までは進んでいなかったので、障がい者を社会の一員にしようと尽力をしていました。昔は「パラリンピック」と言っても、説明しないとわからなかったけれど、今はみんな知ってますし、パラリンピックの結果がテレビで報道されるなど変化を感じています。

Q 1964年の東京パラリンピックでは中村裕医師が日本選手団団長を務められています。2020年には東京でパラリンピックが開催されますが、1964年の大会から学び2020年の大会に活かせることなどはありますか。

A
第1回パラリンピックとも呼ばれている1960年のローマでの大会は脊髄損傷者のみが対象でしたが、父がストーク・マンデビル病院から帰ってきて開催した1961年の大分県で行った障がい者スポーツの大会は、脊髄損傷だけでなく全ての身体障がい者が参加できる大会にしました。一方、1964年に開催された国際身体障害者スポーツ大会は、第1部が脊髄損傷対象の第13回ストーク・マンデビル大会、いわゆる第2回パラリンピック大会、それに続く第2部大会が全ての身体障がい者が参加する国内競技大会(※)で、視覚障がいのある方、手や足が切断されている方、なども参加しました。
欧米では、障がいの種別ごとに大会を行っていたこともあり、全ての身体障がい者がスポーツの大会に参加できるようになったのはずっと後になってからです。しかし、日本では1964年にすでに障がいのある方全てに開かれた大会を実現しており、それが日本人ならではの発想ではないでしょうか。1964年に脊髄損傷者だけでなく全ての身体障がい者を対象としたパラリンピックを行ったというのは素晴らしいし、日本の文化の影響もあるのかもしれませんが先駆的だと思います。1964年には欧米というお手本があり、日本が欧米に追いつくのが目標でしたが、日本が先進国の一員となった2020年は、世界にどんなパラリンピックを見せられることができるのか、期待しています。

)日本に加え、一部の国が参加

中村裕医師の残した言葉 “ハンディキャップ”というものは世の中が作るのであって、何も身体障害者自身が作るものではない。世の中が本当に彼らを受け入れるような態勢、何とか言うけれども身障者はだめだとか、うちの子どもはあそことは遊ばせたらいけないという偏見、そういう偏見とか社会の仕組みさえなければ“ハンディキャップ”ではないわけです。 ※1979年7月26日 これからの福祉と教育 県小中学校校長会 講演

Q 東京2020大会のビジョンの一つとして「共生社会の実現」を掲げていますが、東京2020大会を通して共生社会を実現する上で、本当に必要なものは何だと思いますか。

A
約50年前に父(中村裕医師)が設立した大分にある障がい者のための社会福祉施設は、現在は1,000名ほどの方がいます。その方々が家族を持ち親になれば、学校のPTAに参加しますし、運動会にも行き、食事会にも行きます。自然に交わることで、障がいがあること自体に段々と違和感がなくなってくるんですね。長年にわたって障がい者が一定数以上いると、知り合いに障がい者がいることも当たり前になってきます。今後、東京2020大会においても、そのように障がい者に対して違和感をもたない社会であったら良いな、と思います。そのためには、まずは自然に接してもらうこと、その中で相手を知ることが必要ですね。
また、障がい者の方と接する機会や一緒に過ごす時間を増やすことも必要じゃないでしょうか。ボランティアでもいいと思います。スポーツを通して、同じ話題、同じマインドを持つのも良いと思います。障がい者は特別な人ではありません。まずはその意識が必要だと思います。

Q 中村裕医師の故郷である大分では、国際車いすマラソン大会や障がい者の社会福祉施設などがあり、他の街に比べて障がいのある方たちへの理解が深まっているように感じます。その理由は何だと思われますか。

A
特に、道路や建物が障がい者の方々にとって暮らしやすい工夫がされているということは感じません。そういった面であれば、東京のほうがよっぽど進んでいると思います。

日常生活の中に障がい者がいるので、普段から障がい者と接することが多いからではないでしょうか。大分では37年も国際的な車いすマラソン大会が開かれていて、毎年何百人ものアスリートがいらっしゃいますし、1カ月前から道路に横断幕も出始めるので、10月の終わりになると今年も車いすマラソンの時期がやってきたんだなと実感します。サイクリングロードで車いすのレーサーが練習している場面を日常的に見ることも普通です。また、大分の地方紙は、昔から障がい者スポーツの報道や障がい者施設の報道に熱心に取り組んでいただいています。車いすマラソン大会の時は1面を飾りますし、新聞の半分くらいが車いすマラソンの話で埋められます。大分ではそのくらい普通なことなのです。障がい者スポーツも障がい者も、接する機会が多いから違和感がないんだと思います。障がい者スポーツがイベントではなく、普通になるきっかけになってほしいです。

中村太郎氏プロフィール

1960年 大分県別府市生まれ
2006年 太陽の家 理事長就任
2007年 大分中村病院 理事長就任
(役職)
社会医療法人恵愛会大分中村病院 理事長(院長兼任)
社会福祉法人太陽の家 理事長
大分大学医学部 臨床教授
大分県立看護科学大学 臨床教授
日本障がい者スポーツ協会 医学委員
日本障がい者スポーツ学会 常任理事
日本脊髄障害医学会 評議員

東京2020パラリンピック競技大会成功へのヒント(後編)「大分市民と障がい者スポーツ」